2024年2月22日、女優「山本陽子」さんが81歳で急性心不全で亡くなられた報道されておりました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
そこでここでは山本陽子さんの追悼の意味も込めて山本陽子さんの若い頃のエピソードにてついてまとめてみました。
芸能界に入る前に証券会社でOLとして勤めていたという山本陽子さん。
一体どこの証券会社で務めていてのか?
証券会社でOLとして勤めてみたころのエピソードや当時の画像について紹介していきますのでご覧ください。
【山本陽子の意外な一面】
山本陽子が若い頃働いていた証券会社はどこ?
山本陽子さんが若いころ働いていた会社は野村證券投資相談部でした。
ここからは野村證券に入社するまでから退職するまでの経歴を時系列でご紹介していきます。
山本陽子のwikiプロフィール経歴
それでは山本陽子さんのwikiプロフィール経歴をご覧ください。
生年月日 | 1942年3月17日 |
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没年月日 | 2024年2月20日(81歳没) |
出生地 | 東京府東京市(現東京都)中野区 |
死没地 | 静岡県熱海市 |
身長 | 155cm |
血液型 | A型 |
職業 | 女優 |
ジャンル | テレビ・映画・舞台 |
活動期間 | 1963年 - 2024年 |
配偶者 | 独身 |
著名な家族 | 山本亜希子(姪) |
山本陽子さんは東京市(現東京都)中野区で誕生し國學院高等学校卒業後、野村證券に就職されています。
家族構成はこちらになります。
両親 | 未公表 |
兄 | 1940年生まれ |
姉 | 1941年生まれ |
山本陽子 | 1942年3月17日 |
弟 | 1943年生まれ |
山本陽子さんのご家族は1945年にあきる野市で疎開生活を送り、終戦後国分寺市に転居されています。
一般的なサラリーマンだったそうです。
そして子供時代の山本陽子さんはとてもおとなしく中学生までは人前にあまりでなかったとのこと。
高校生になって弓道部に入部すると徐々に積極的な性格になって行ったと語っています。
証券会社に就職した山本陽子
山本陽子さんは高校卒業後は就職するか大学に進むか悩むことなく就職されています。
「いい会社に入って結婚したい」という思いが強かったことから、1960年に堅実な野村證券に入社されました。
勤務先は日本橋本店でした。
野村證券では営業部に配属されて主に投資信託を担当し、電話や手紙で客とやり取りをしたそうです。
東京五輪の4年前なので、橋の上の首都高はまだできていなかったと語っておられました。
山本陽子の担当した業務の内容は?
山本陽子さんは毎日お客様あての手紙を、手書きで丁寧に何通も書いていました。
お仕事が大好きで毎日がんばってお手紙をかいていたとのことです。
社員旅行も恒例で楽しい職場環境だったと言われていました。
山本陽子さんは女優に転身してからもいまでも野村證券時代の同僚や、高校時代の女友達と食事をされます。
「青春時代の友人たちは、私の大切な財産です」と語っていました。
山本陽子が若い頃働いていた証券会社でのOL時代のエピソード
山本陽子さんが若いころ働いていた証券会社でのOL時代のエピソードとして、ある日上司の態度に怒り周囲にびっくりされたことがありました。
山本さんの毎日の業務であるお客様に書いている手紙はお金に関する内容であったそうです。
手紙が完成すると毎回課長に検印を推してもらうのが決まりでした。
ところがある日のこと。
いつものように検印をもらいに行った山本さんに課長は「こんな書き方じゃダメだっ!」と言ったのです。
この言い方にカチンときた山本さんは課長の目の前でその手紙を破いてしまいました。
「自分が一生懸命書いたのに、もう少し言い方があるじゃないの!」と思ったのだそう。
後年、山本さんは当時を思いながら
「その様子を見た周りの人たちもビックリしていて、翌日課長に謝罪したが周りからものすごく気の強い女だと思われたと思います」と語っています。
翌日「申し訳ありませんでした」と課長に誤ったそうですがその後の課長の山本さんへの言葉遣いはどのようになったのか気になりますね。
山本陽子のOL初任給は1万500円だった
山本陽子さんの初任給は昭和38年当時で1万500円だったそうです。
そのうち5000円を家に入れていたそうです。
配属は営業部で、主に投資信託を担当していた山本さんは前述いたしましたように毎日お客様に手書きで手紙を書いていました。
他にもお客様と電話でやりとりをして問い合わせがあると手紙で返事をかいていたのだとか。
手紙の内容はお金に関することなので間違いがないように毎回課長に検印を押していただいていたと語っています。
働くことはすごく好きで、「仕事はきちんとやりたい」という責任感が出てきてがんばっていたと明かしていました。
山本陽子は料理教室に通っていた
山本陽子さんはOL時代に市ヶ谷にあった料理研究家、江上トミの教室で料理の基礎を学んだことがありました。
2022年のインタビューで2020年からのコロナ渦で3食自炊して食べていたら体重が増えてしまったので、1日2食にしていると明かしています。
食べ物に関しては毎日海苔を召し上がっており、これは長年CMを務めておられた「山本山」の海苔だと推測いたします。
好きな食べ物はわかめの酢の物をあげておられました。
山本陽子のおしゃれなOL時代
山本陽子さんが働いていた頃のOLは紺の上着が制服で、下は私服のスカートという人が多かったそうです。
山本さん当時流行っていたマンボズボン(太腿あたりは太め。裾にいくと細くなる)をよくはいていたとのこと。
ただノーメイクでした。
当時働いていた野村證券の職場ではノーメイクが普通だったので同僚たちもメイクをされている方はいなかったと語っていました。
山本陽子のOL退職当時のエピソード
さて約3年間のOL時代にピリオドを打つときがやってきました。
それは、1963年に山本陽子さんの知人が日活ニューフェイスに応募したところみごと合格したのです。
ちょうど3年間OLをやって「違う仕事もしてみたい」と思い始めていた時期だったので、引き継ぎをして退職されました。
第7期日活ニューフェイスとして芸能界入りした山本陽子さん。
同期は西尾三枝子さん、谷隼人さん、沖田峻一郎さんなどがいらっしゃいます。
山本陽子が若い頃働いていた証券会社のでのOL時代の画像を紹介!
次に山本陽子さんの若いころ働いていた証券会社でのOL時代の画像をご紹介します。
山本陽子さん、すごくキュートでかわいらしいです。
大きな白いえりと袖口がきゅっと絞ってある制服がとてもよく似合っています。
そして、こちらは左から2番目が山本陽子さんです。↓
社員旅行でしょうか?
今でも仲良くしている同僚がいるとおっしゃってましたので、この方たちだと推測できます。
とても楽しそうですね。
山本陽子が若い頃働いていた証券会社についてまとめ
ここまで女優「山本陽子」さんが若い頃に勤務していた証券会社やOL時代のエピソードや画像について紹介してきました。
まとめますとこのようになります。
このように大女優がかつては証券会社のOLだったということに驚きを感じました。
しかし当時の画像を見る限りやはり美しさ・かわいさは際立っており、芸能界入りは必然であったのかもしれません。
もし野村證券に入っていなければ同僚が応募していなければ女優山本陽子は誕生していなかったかもしれないと思うと、本当に運命というものについて考えされられます。
今はただ山本陽子さんのご冥福をお祈りしたいですね。
ここまで読んでいただきましてありがとうございました。
参考記事:週刊現代電子版
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